インドネシア紀行(9)フレデブルク要塞博物館の中に入る

しばらく更新が滞っていました。これは、インドネシア国立文書館編著『ふたつの紅白旗 インドネシア人が語る日本占領時代』(1996年、木犀社)を読んでいたためです。この本の読書メモは、こちらをご覧下さい。http://www.readingplus.jp/entry/4896180178/1694001/

さて、以下は、2014年3月15日(土)の記録です。

タマン・サリを出て、ペチャでフレデブルク要塞博物館に到着。10,000ルピアを払ってチケットを購入(あれ、ICOMの会員証は使えなかったのかな?記憶が飛んでいる)。入ってすぐに、おじさんが英語で語り掛けて来ます。とっさに、またガイドさんか?と疑ってしまったので「トイレはどこですか?」と。本当に行きたかったのだけど、半分は、ガイドは勘弁と思った面も(単純に順路を教えようとしてくれただけかもしれませんが)。「あっち」と教えて貰い、まずはトイレです。これ、海外で博物館入る時の鉄則。

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ご覧のとおり、水を流すのはやはり右上の柄杓しかない訳です。紙はどうしたらいいんだ?

トイレの外には、水道の蛇口が並んでいます。

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お祈りの前に身を清めるためのものでしょうか?

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続いて、男女別に分かれたお祈りのための部屋MUSHOLLA。トイレとセットなのが、理解しづらいのですが。

さて、展示室に向かいますが、いつもの癖で、順番を無視して手近な展示室から入ってしまいました。歴史順には、南側のジオラマ1から入るのが本来の見学順なのですが、ジオラマ2→ジオラマ3→ジオラマ1と回りました。ジオラマ2は、日本敗戦から始まっています。

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これは、1945年9月21日、Cokan Kantai Building(現・大統領官邸)に掲げられていた日の丸を降ろし、インドネシアのメラ・プティを掲揚する場面。

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1945年10月7日のコタバル(ジョグジャカルタ)の戦い。”10月6日、コタバルの日本軍本部の兵器庫を平和裏に武装解除させるべく、8時間の交渉を続けたが成功しなかった。数千人の若者が23時までにコタバル周辺に集まり、交渉の成立を待てず、戦いは翌7日、4:00から10:30まで続き、インドネシア側は21人が殺された。Otzuka少佐率いる360人の兵士がスルタンへ武器を引き渡したのち、戦いは終結した”といった内容の英語キャプションが付いています。

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大日本帝国発行の紙幣。

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1945年9月23日、特殊警察が日本兵を武装解除させているところ。

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インドネシア共和国政府のジョグジャカルタへの移動。1946年1月4日、スカルノ大統領と国家リーダーたちが、ジョグジャカルタのTugu駅に到着したところ。

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1947年7月29日、赤十字からの2トンの医薬品援助物資を運ぶためにチャーターした民間機が、オランダのキティーホークに攻撃され墜落した場面。

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 1948-49年、オランダ軍侵攻の第二期、インドネシアのゲリラたちは村に住み、村人たちはコミュニティ・キッチンによって、ゲリラたちを支援した。

ジオラマ3の棟には、カーテンで仕切られ、撮影禁止の張り紙のある一角があり、お祈りの部屋があるのかと入ってみたら、そこには等身大のマネキンがあり、オランダ兵に対し、銃を向けるインドネシア兵(ゲリラだったかもしれない)が再現してあった。ここを囲って、撮影禁止とする意図は何だろう?と考えた。来館者により印象づけるためなのか、はたまた、オランダへの配慮なのか。

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「ゲーム形式で学ぶインドネシア独立戦争」だろうか。

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3棟を出て、1棟へ入る。本当は、年代順的にはここからがスタート。

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1920年8月20日、ジョグジャカルタの砂糖工場の労働者たちのストライキ

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1942年3月6日、ジョグジャカルタに日本軍が到着。

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こちらは「タッチパネルで学ぶ日本占領期」のようだ。インドネシア語のみなので、詳しくは写真と年号から想像するしかない。

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1942‐45年のジオラマ。「PETA(防衛義勇軍)、ヘイホ(兵補)、学童、青年団、警防団に対する軍事訓練」とのタイトルが付けられている。

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1944年頃か、「ロウムシャ」と呼ばれた人々に作業させているところ。英語解説はなかったと思う。

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タッチパネルで学ぶ日本占領期。ロウムシャの様子。このコーナーに英語表記がないのは、やはり日本への配慮なのだろうか。

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警防団という文字が読み取れる。

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ミリタライズ(軍事教育)と読み取れる。こうした日本軍によるインドネシアの人びとへの軍事訓練は、やがてインドネシア独立戦争に活用(転用?)されることとなる。

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日本軍によって創設されたペタ(PETA(防衛義勇軍))。

フレデブルク要塞博物館に来たこの日は、日本とインドネシアの戦時中の関係をほとんど知らずに来たため、写真を撮りつつ、英語で書かれたパネルは出来るだけ読むように努めましたが、全部はとても読み切れず、また、英語訳のついていないコーナーもあり、帰国後、上述の国立文書館編著の書籍を読み、おぼろげながら理解が進み、こうしてブログに撮影した一部をアップした次第です。

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ミュージアムショップは閉まっていましたが、おしゃれなカフェが併設されていたので、昼食をここで取りました。

フレデブルク要塞博物館は、紀行(7)で書いたように、インドネシアの子どもたちが学校から訪れる場所となっているようです。ジャカルタで誰もが「モナス」(独立記念塔)を連呼することから察しても、インドネシアの人たちにとって、独立戦争は誇るべき、子どもたちに伝えるべき歴史なのだと思います。オランダからの独立戦争がより大きなテーマとなっているとは思いますが、こうした施設でタッチパネルを用いて、インドネシアと日本の歴史を多くの子どもたちが学んでいることを、私たちは知っておく必要があると思います。