山中一郎先生のこと

山中一郎先生が亡くなられた、と伺った。俄かには信じがたい。帰宅して検索してみたら、やはり本当のようだ。でも、こんな記事書いて、すみません、誤報でした!と謝罪文書くのではないか、と思うほど、信じたくないのだ。

山中先生は私の博物館学の恩師である。もっとも、山中先生の授業には1回しか出ていない。初回授業で山中先生は、黒板に3冊の書名を書いて、「日本の博物館のことは、この3冊を読めば全部分かる。授業には出なくていいから、博物館へ行って、面白い博物館があったら、僕の研究室に来て話してくれ」と言われた。その日の授業はそれで終わったのだと思う。

大変素直な学生だった私は、先生の言葉を真に受けて、本当にその後一度も授業に行かなかった。

山中先生の博物館学の単位認定は、レポートと試験だった。レポートは、自分の作りたい博物館について書きなさい(図を書きなさいだったかもしれない)というもの。レポート課題が貼り出してあり、レポートを返却してほしい人は研究室まで取りに来なさい、と書いてあった。

私は、六角形の森林性サボテンの温室の見取り図を書き、「サボテンは沙漠の植物という固定観念を打ち破る」と館のコンセプトを書いた。栽培相談コーナーも設けた。

そして、ノコノコと先生のお部屋に伺い、レポートの返却を願い出たのである。スチール製の書類整理ケースを開けて、先生は、私のレポートを探し出してくれた。レポートには、赤ペンでAと書いてあった。

山中先生の博物館学は、レポートの得点の保存が効き、一度取った成績は年度を跨って有効だった。確か3回生の時にレポートを出したものの、試験は他教科の勉強に忙しく、その年は受けずじまいだった。

友人から過去問を貰った。過去問には、50個、語句が書いてあり、「次の語を博物館に関連して簡単に説明しなさい」とあった。「1.三要素 2.ムセイオン 3.コンドルセ 4.西洋事情・・・・50.ポリエチレン・グリコール」こんなの解けないよ、と思った。

2年後、大学院に進学した私は、取り残した博物館学の試験を受けることを思い立ち、友人から譲り受けた過去問を頼りに、博物館学の本を借りて解答例を作ろうとしたが、部分的にしか解けなかった。当時はGoogle先生のような便利なものはなかったし、百科事典を引くとか、人名事典を引くという知恵もなかった。

構内でばったり、山中先生にお会いしたことがあった。「こんなにきちゃったよ・・・」と祇園の請求書をひらひらさせておられた。

さて、50問短答式の勉強を曲がりなりにもして、試験に臨んだのだが、ショックなことに、教育学部生はこっちの問題を解いて、と短冊のような紙を渡された。教育学部だけは、卒業に必要な単位にカウント出来たからだろう。この短冊には、「わが国における文化財破壊の危機が生じたといえる3つの時期をあげ、それぞれにあった事件を指摘し、それぞれにおける改善された方向を論じなさい。」と書いてあった。こんなの無理、全く分からない、と焦った私は、厚かましくも山中先生に、「こんなの解けません!こっちのにさせて下さい」とお願いして、短答式を解答したのだった。

この年の短答式は、「1.アレキサンドリア 2.王立植物園 3.ピナコテーク 4.郷土博物館・・・49.公教育概念」の49問だった。もちろん、分からない問題もたくさんあった。5個か10個か書ければいいだろう、と試験終了時まで無理やり粘ったのを覚えている。その日、モヘヤのピンクのカーディガンを着ていたことも。

この年、単位をいただいた。

私は教育学部の卒論と修論を、スウェーデンのリカレント教育で書いた。そして、別にスウェーデンに行かなくても、日本で好きなことをやればいいのだ、と悟った。当初は、女性解放のシンボルとしてのスウェーデンに憧れていたのだ。

博士後期課程に進んでからは、生活のためのアルバイトに明け暮れ、研究は全くできなかった。研究テーマに悩んだが、博物館研究は指導教官のU先生から反対された。学問として確立していないし、就職も難しい、それ以前に、研究テーマを変えてはダメだとの、しごくまっとうなご意見だったと思う。

前後関係は覚えていないが、ある日、山中先生の研究室を訪ね、「博物館のことを勉強したいのですが、何かお勧めの本はありますか?」と、アホな質問をした。山中先生は、即座に1冊の本を手に取り、「これを読みなさい、貸してあげる」と渡して下さった。それは、フランス語で書かれたクセジュ文庫だった。フランス語読めません、とも言えず、その本をお借りして、しばらく間を置いて本を返しに行った。

この話には後日談があり、もう一人の指導教官M先生に、何かの折に、「山中先生って、すごいですね~」と言ったら、M先生は「どうして?」。私「だって、中国で発掘してフランス語で論文書かれているんです」。M先生「それの、どこが偉いの?」。・・・・絶句。M先生もフランス滞在歴が長く、有名な翻訳本を出された先生だったのだ。・・・この大学の先生たちと来たら、もう・・・。

博物館とか、博物館学に対する漠然とした憧れは、もちろん、私の原点としての、伊豆シャボテン公園とかハマブランカとかの思い出はあったけど、山中先生に出会わなかったなら、博物館関係の論文を書こうとは思いもしなかっただろう。

そして、山中先生の授業をちゃんと受けておけばよかった、と後悔したこともあったが、いつか、山中先生の試験問題が、ちゃんと解けるようになりたいな、とか、最初に板書された3冊の本って、何だったんだろう、とか、クセジュ文庫はどれだったのかな?とか、「博物館のことを勉強しよう」という動機づけになり続けてきた。だから、試験問題3枚は今も大事に保管してある。

私たちの年代は、大学で先生から何かを教えて貰おうという気持ちは希薄だったし、短答式過去問を頼りに、附属図書館であれこれ本を引っ張り出して、調べること自体が楽しかった。

時は流れ、就職して間もない頃、非常勤先の懇親会で山中先生と再会した。これがきっかけで、拙稿の抜刷をお送りしたら、お手紙を頂戴した。「一度議論しましょう」とありがたいお言葉が書いてあったのだが、恐れ多い大先生だったし、返事を書きそびれていた。山中先生からは、その後、写真集を送っていただいた。そのお礼も書けないままに月日が過ぎ・・・でも、私は、お返事とお礼状を書かなくては・・・とずっと思い続けてきた。それが10年くらいのスパンだから、呑気にもほどがある。

山中先生には、大変、失礼なことをしてしまった。

古きよき時代の話ではあるが、こんな大学で、こんな先生に出会えたことを、とても幸せだったと思う。